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第28号巻頭ページの続き
2025-04-21
「月光に咽(むせ)ぶ」(短編小説) written by Yoshi
自販機の明かりで、確かめて仰天した。満雄は思わず手を放しそうになった。黒い皮の長財布に見たこともないような厚みの札が入っている。途端に心臓が高鳴った。元の位置に戻して立ち去ろうかとさえ思った。が気を取り直して警察に向かうことにした。
警察は、会社からさらに10分ほど先だった。拾った財布を持ち歩くという非日常の出来事が満雄を不安にさせた。しかも大金だ。満雄はここで職務質問を受けたら、この事態をどう説明したらいいのだろうと困惑した。「どうか警官に出会いませんように」と祈りながら暗い夜道を急いだ。
警察に辿りついた満雄は「あのー」と当直らしい警察官に声をかけた。事の次第を説明し始めると、慣れた口調でここにと、椅子を勧めた。作業着の満雄にちらと視線をやりながら、拾った場所、時刻などを細かく聞き、逐一記入していった。満雄は、疑われはしないかと内心怯えた。財布の中の金額は100万円を超えていた。
署員に「電話、お借り出来ませんか?」と満雄が頼んだ。怪訝な顔で満雄と先ほどの書類を見比べつつ、
「どうぞ」と電話を指さした。今時、携帯電話を持たない人がいるのかと訝しく思ったのだろう。
「遅くなってすまんな。訳があって、今、警察だ。」
「警察って、事故ですか。大丈夫?」と富子の上ずった声が聞こえた。富子は先ず、交通事故を心配したようだった。
「拾った財布を届けただけだ。心配はない。詳しいことは帰ってから…」
署員に黙礼をして、満雄は夜更けの家路に溶けていった。
富子は満雄の無事を見届けるとホッとしたように肩で大きな息をした。仔細を知って
「そんな大金を持ち歩く人がいらっしゃるのですね」と驚きを隠せない様子で言い、
「良いことをなさいました。お疲れさま」と穏やかに満雄を労った。変わらない夫の誠実が誇らしかった。そして二人は遅いがいつもと変わらない夕食を始めた。
作業中に呼ばれて満雄が事務所に入ると、身なりのいい見知らぬ男が会長と話をしていた。
「満雄君、夕べの財布の持ち主、藤堂さんだ」と紹介し、二人を応接室に招き入れた。
藤堂は着席に先立ち、
「この度は…」と、頭を下げ、手土産を差し出し「ありがとうございました。そのうえ遠距離を歩かせてしまって…」と一層深く頭下げた。すべての所作が厳しく躾けられて育ったことを思わせた。
会長は「固い挨拶はそれくらいにして、お掛けください」と再度、席を勧めた。
藤堂は二人の着席を確かめてから「つきましてはお礼の件ですが…まことに不躾かも知れません。20万と言うことでご了承いただけないでしょうか」と満雄を見つめ提案した。満雄が驚きで困惑していると、会長が「藤堂さんが財布のお礼に20万円を受け取って欲しいと言っておられる」と優しく説明した。意味は理解したが満雄の目は泳いでいる。
「そ、そんな…大金はとても…受け取れません」と固辞した。藤堂の目はどうしてもと語っている。満雄はどう対処していいのか言葉を失って、何度か押し問答になった。
会長が「いやはや、欲のない人ばかりだ」と軽口を交えて、
「どうです? 10万なら…」と藤堂の目を見て提案し、
「満雄君、どうだね」と畳みかけた。
藤堂は、迷ったが会長の提案に妥協するしかない。会長の提案なら満雄さんも納得できるだろう。満雄と会長の目を交互に見て頷いた。満雄は未だ逡巡してはいたが、抗えない力を感じて頭を下げた。
事の終着を確認して会長は名刺と藤堂の身なりに注視しつつ、
「ずいぶん景気が良さそうですな。どんなお仕事を?」とたずねた。
「はやりのネットビジネスです。在学中の起業が成功しました。運が良かっただけです」と謙遜しながら、心の中では、満雄にどう埋め合わせをしようかと考えていた。「会長はいい社員さんをお持ちで羨ましい。うちにも優秀な社員が大勢いますが、満雄さんのように心が真っ白な人はそうは居ません。私は財布が戻って来たこともですが、高潔なものに触れたようで、感激しています。満雄さんのような方が、いざという時に組織を救うと信じています」と、心中を語った。
「満雄さんさえ良ければ、末永いお付き合いをお願いします」と会長と満雄に立礼して、退出していった。
晩秋の澄んだ空の休日、公園には落葉したコブシの梢にまっ赤な実が映えている。満雄は積もる枯葉が匂うこの時期が好きだった。いつものように作業着の満雄は風のそよぎと野鳥のさえずりに聞き入っていた。「満雄さん」と呼ぶ声がする。見ると藤堂がカサカサと枯葉を踏んで、笑みと共に歩みよって来た。
「先日は、ありがとうございました。近くに所用があって、通りがかると満雄さんをお見掛けしたので、思わず声を掛けてしまいました」と軽い会釈を投げかけた。唐突な藤堂の出現に満雄は
「こちらこそ、要らぬ出費をさせてしまいました」と小さく会釈を返して、怪訝な目を向けた。
「いい公園ですね。故郷を思い出します」藤堂は遠い日を思い出すように語った。
「故郷? ご両親はご健在ですか?」藤堂の言葉が気になった満雄が聞き返した。
「ええ、おかげ様で健在です、ありがとうございます」
「それはなによりです。ご実家はどちらですか」
「〇〇市です。…そうだ、折角ですからお茶でも啜って話しませんか。私もちょうど歩き疲れたところです」と満雄に問いかけた。満雄は、少し戸惑ったが、謝礼の件もあるので断りづらかった。目で同意すると、藤堂は歩き始めた。
藤堂が公園の外れにしゃれたカフェを見つけて、その方向に向った。カフェの前で満雄は
「こういうお店は高いのでは…」とたじろいだ。
「そんなでもないですよ。それに今日は私が無理にお誘いしたのですから」と満雄を促した。満雄は今までカフェも含めて外食をしたことがなかった。コーヒーカップの軽くぶつかり合う音が響く。目の前に運ばれてきたカップからは上品な香りが立ち上がった。満雄はいきなりその香りに酔ったかとさえ思った。「冷めないうちに…」と勧められた。インスタントとは明らかに違う豊かな味わいが口いっぱいに広がると全身に幸福感があふれた。満雄はこんな世界があるのか、富子にも飲ませてやりたいと思った。
「藤堂さん、自分はこういうに立派な店に入ったこともない田舎者です。先日、身に余るお礼をいただいた上に、今日また散財をさせて、面目ないことです」
「満雄さん、私はこうしてあなたとお話をしていると安らぎます。仕事でささくれた心が癒されます。…私はついうっかりと会社の規模を拡大し過ぎたかも知れません。次々に現れる競合他社との競争、社員の引き抜き、ハッカーの脅威。規模を拡大して生き残りを図りました。拡大した結果、さらに大きな問題を抱えました。気の休まる間がありません」少し間をとって、
「父は乏しい収入を工面して、大学に行かせてくれました。父には『身の程を弁えろ』とよく諭されました。その意味では、今の私は失敗かも知れません」と言って、藤堂は遠い日々を述懐するかのように、カフェの窓から公園の枯れ木立を見つめた。視線の先に天高くすじ雲が刷毛で掃いたように流れていた。
満雄は藤堂の苦悩を垣間見る思いがした。経営者としての孤独な日々が父親に救いを求めているのだろうかと、藤堂を思いやった。
「いいお父さんですね」
「ええ、実直な人です…頑(かたく)ななほど」と満雄を見つめて答えた。
満雄は答える代わりに、何度も頷いた。
永く続いた会話の後、藤堂は
「満雄さん、今日は、ありがとうございました、いい時間をいただきました。機会があれば、また是非…」と言い残し、長い陰を曳きながら、燃えるような残照を追うように戻って行った。
その夜、満雄は富子にコーヒーをご馳走になったことを話した。「いい人ですね」と肯定的に捉えた。が香り高いコーヒーの味までは気遅れして話しそびれた。自分だけが味わったことが満雄には重荷になった。
慌ただしい師走のある日、会長が「満雄君」と声を掛けてきた。「藤堂さんを覚えているだろ、藤堂さんがお客さんを紹介して下さった。その件で食事しながら相談したいそうだ。付き合うてくれんか?」と言ってきた。「会社ではダメですか」「藤堂さんがそう言うんだ。頼むぞ、この日だ」とメモを渡してきた。
その日、満雄は富子に「この間も話をしたように、今夜は社長のお供で藤堂さんと会うことになっている。遅くなると思う。一人で食べていてくれないか、すまん」と当惑と共に伝えた。富子は夫が社長のお供をするなんてとちょっとした高揚感と戸惑いを感じながら「お気をつけて」と送り出した。
藤堂は既に席に付いていた。落ち着いた雰囲気の、いかにも高級そうな寿司屋だった。藤堂と会長は図面を見ながら、やり取りを始めた。落ち着かない居心地の悪さを感じながら、満雄は自分の出番をひたすら待った。が話題が満雄に向くことは、ほとんどなかった。ほどなく食事になった。酢飯の上品な香りが漂ってくる。板前の洗練された、鮮やかな手捌きで一貫一貫丁寧に握られる。シャリとネタの見事な一体感で、口の中に広がる食感、適度な噛みごたえ、満雄には表現しきれない旨さだった。夢のようなとはこのことか思った。次々と出されるタイミングとネタが絶妙で驚きの連続だった。
満雄は今夜の自分が何の役にも立てなかったことを恥じていた。
「今夜はお役に立てなくて、申し訳ないです」と何度も謝った。
「そんなことはありませんよ。それより、お楽しみいただけましたか」藤堂が丁寧に聞いた。
「自分にはもったいないです」と意味の通じない言葉を返した。
年が明けた厳寒のある日、退け時に満雄は呼び止められた。藤堂が柔和に微笑んでいる。「満雄さん、近いうちに食事でもどうですか。奥さんもご一緒に」満雄が富子のことを気にかけていることを藤堂は察していた。
凍てつくような夜気の中、満雄は思い詰めたような目で藤堂をじっと見つめ、やがてほとばしるように切り出した。
「藤堂さんがいい人なのは、ようく分かってます。優しい人ということも、よう分かってます。ご馳走になったコーヒーは、うちのインスタントとはまるで違う。こんな飲み物があるのかとさえ思いました。寿司もご馳走になりました。うちでもたまには寿司を食べます。タイムセールの寿司です、と言っても、お分かりにならんかも知れん。特売品です。それだってわしらにとってはご馳走です。藤堂さんの寿司は、それはそれはこの世のもんと思えん旨さでした。その旨さが、自分には恐ろしい。インスタントのコーヒが不味うなったんです。あの寿司を食ろうたばっかりに、特売の寿司が味気のうなってしもうた。それは罪じゃ、それは悪じゃ」と満雄の語り口は次第に地言葉になっていった。
「特売でええんじゃ。インスタントで十分なんじゃ。人の欲望は際限ない。もっと、もっと、と欲張りになる。金も同じじゃ。100万を手にすりゃ300万、次は500万。それが、わしには怖いんじゃ。堕ちてゆくようで恐ろしいんじゃ。藤堂さんの好意はありがたい。いい人じゃとも思うとります。じゃから断れんかった。わしは…わしは富子に顔向けできん。藤堂さんの優しさがわしを苦しめるとです。もう、構わんでください。わしを苦しめんでくれ。お願いじゃ…」
寡黙な満雄が、悲痛な叫びのように一気に吐き出し、しばらくの間うなだれて、咽ぶかのようだった。
やがて藤堂に向き直ると無言で深く一礼して、いつもの猥雑な道を帰って行った。乾燥した風が遠く往く列車の音を静かに運んで来る。しじまの中に身じろぎすら出来ない藤堂の目には、その後ろ姿が大きく映った。頑なに誠実を貫く藤堂の父親を、満雄に重ねていたのだろうか。凍るような夜気に晒された藤堂の心に温かく染み入るようだった。
煌煌と降る月の光に満雄の背中が銀色に濡れていた。

